気が付けば、風がまた甘く薫っていた。
せかせかと、何かに追い立てられるように動かしていた足をふと緩め、そぞろに暮れなずむ夕暮れ空をぼんやりと見上げた。
茜色に染まった千切れ雲が、ゆっくりと風に流されていく。
いつの間に季節が移り変わっていたのか、甘い花の香りが仄かに鼻腔をくすぐった。
アカデミーからの帰り道。
いつもと変わらない一日の終わり。
そういえば、こうやってのんびりと空を眺めるのも久し振りだな・・・。
最後に見た空はどんなだっただろうと、思いを巡らせる。
真っ先に頭に浮かび上がったものは、カカシ先生の隣で見上げた青い青い夜明け前の空だった。
「・・・ふう・・・」
あの頃のいろいろ思いあぐねていた記憶が蘇り、思わず溜息を吐いてしまった。
『溜息を一つ零すたびに、幸せが一つ逃げていく――』
そう誰かに教えられた事があったっけ・・・。
こうも毎日溜息ばかり吐いていたら、私の幸せはとっくに底を突いてるだろうな。
あながち嘘とも言い切れない状況に、人知れず苦笑する。
あの時の私も、やっぱりあれこれ思い悩んではいたけれど、こんな馬鹿みたいな意地を張ってはいなかった。
もっと素直に自分の心に向き合って、素直にカカシ先生を好きだと思えていた。
「何やってんだろな・・・私・・・」
何に追い立てられているんだろう。
何を焦っているんだろう。
季節の移り変わりも気付かないほど、脇目も振らずに一体何をしようとしているんだろう。
「・・・・・・」
このまま真っ直ぐ帰るのが、急に馬鹿らしく思えてきた。
くるりと向きを変え、見慣れた小路を当てずっぽうに足を進めた。
思い付くままあれこれと曲がり、どんどん先へ進む。
どこに行きたいのか分からない。
ただ風に誘われるままに足を進める。
そして気が付けば、私はいつの間にか、丘の上の公園の天辺に辿り着いていた。
「ここかあ・・・」
夕刻の風に吹かれて、さわさわと木の枝が涼しげに揺れている。
ここを訪れるのも久し振りだった。
一回りも二回りも大きく繁った木を見上げ、その経過した時間を感慨深く思い遣った。
この前ここに来た時、私はカカシ先生の帰還を今か今かと待ち侘びていたんだっけ・・・。
「カカシ・・・先生・・・」
今頃、何処で何をしているんだろう。
先生の事だから、とんでもない大怪我でもしてなければいいんだけど。
会えなければ会えないほどに、その面影は蘇る。
離れれば離れるほどに、その思いは募っていく。
無駄な足掻きだとは、重々承知していた。
自分から背を向けておいて、何を今更・・・。
あれ以来、ぷつりと先生からの連絡は途絶えてしまっている。
もはや何の為にカカシ先生との接触を断っているのか、分からなくなっていた。
でも、私からカカシ先生に会いには行けない。
・・・私に何ができると言うのか。
自分勝手にあれだけ振舞っておきながら。
自分の本当の気持ちに嘘を吐いて、過ぎてしまった昔ばかりを悔やみ続けて、そして心も身体もボロボロに擦り切れて――
どうすればいいのか分からない。
どうしたら楽になるのか分からない。
ううん、本当は分かっている。
どうしたらいいのかよく分かっている。
でも、どうする事もできやしない。
いくらなんでもできる訳がない。
「せん・・・せ」
先生に会いたい。
本当は会いたくて会いたくて堪らない。
でも、会えない。
今更合わせる顔なんてない。
諦めようと思うのに、先生の姿が頭を離れない。
諦めようと思うほど、先生の姿を追い求めてしまう。
もしも今、カカシ先生に会えたなら・・・。
そうしたらもう一度、先生と・・・、先生と一緒に私は・・・。
私は・・・、どうしたいんだろう・・・。
もう、隣には立てないかもしれないのに。
もう、一緒に笑い合う事なんてないかもしれないのに。
「やっぱり、もう・・・、遅過ぎるよね・・・」
甘えるだけ甘えて、先生の好意を無碍にしてしまった罪悪感は、計り知れなかった。
考えなしにこんな決断を下した訳ではなかったけれど、あまりにも失うものが多過ぎた。
私はただ、カカシ先生が好きだっただけなのに・・・。
サスケくんとカカシ先生・・・、どっちの気持ちも、大切にしたかっただけなのに。
サワサワサワ・・・
木々の葉が一斉にさざめき出す。
ひんやりと心地良い風が、軽やかに目の前を駆け抜けていく。
それに合わせて、全ての感覚器官が一瞬にして鋭く研ぎ澄まされた。
(え・・・?)
背筋が震えた。全身が硬直した。
都合のいい思い込みなのではないかと、ついつい自分を疑ってしまった。
よく知った気配が、ゆっくりとこちらに近付いてきている。
とても上忍とは思えない、あからさま過ぎる気配を辺りに撒き散らしながら。
ゆっくりと、ゆっくりと。
「・・・うそ」
大きく狼狽し、どこかに身を隠せないかと辺りを窺った。
どうしよう・・・。怖い。
あんなに会いたいと思っていたのに、いざとなると怖くて仕方がない。
おろおろと視線を彷徨わせるが、見晴らしのいい展望台で身を隠せる場所など到底見当たらなかった。
それにカカシ先生は、私がここにいるのを承知の上で気配を撒き散らしている。
逃げおおせる事など、はなから無理な話だった。
「よっ」
ガチガチに身を強張らせていると、やがて、数メートル離れた場所でカカシ先生の声がした。
それはまるで、私が近くにいるのを偶然見掛けて、ふと声を掛けてみた――
そんな気軽な声色だった。
「久し振りだね」
「そう、ですね・・・」
「元気だった?」
「・・・はい」
「後遺症とかは? あれからなんともない?」
「いえ、大丈夫です・・・」
「そっか。そりゃ良かった」
「サクラは写輪眼の免疫がなかったからね。それだけが心配だった・・・」 ホッとしたように、先生が笑う。
カカシ先生の態度は、あくまでもさり気ない。
決して私を責めようとはしない。
その事が、かえって私を心苦しくさせた。