――― ある日の朝 そして 明日・・・ ―――





薄いカーテン越しの、ガラス窓の向こう――

チュンチュン・・・と囀る小鳥達の声に、ゆっくりと意識が覚醒していった。

まぶた越しに感じる穏やかな朝の光。

何とはなしに寝返りを打って、ふと、ここが自分の部屋ではない事に気が付く。



(あ・・・そういえば・・・)



シーツやブランケットから仄かに漂う男の人の匂い。

寝惚けていた思考回路に、パチッと威勢良くスイッチが入る。

ドキドキしながら両目を開ける。



「・・・・・・」



すぐ傍には、ぴたりと寄り添うように眠るカカシ先生の姿があった。

心がワッと歓声を上げた。

キュキュッと身体を摺り寄せながら、「おはよう・・・」と唇だけで小さく呟く。

ふわふわの前髪が、鼻に当たってくすぐったい。

クスクス笑いをこらえながら、もっと顔を近付けてみた。

いつもなら、私の僅かな身じろぎにも、すぐに目を覚ましてしまうカカシ先生。

だけど――



(あれ?)



規則的に繰り返される静かな息遣い。

目覚める気配など一向に訪れそうにもない深い眠りに、思わずまじまじと先生の顔を覗き込んだ。



「カカシ・・・せんせ・・・?」



血の気の薄い、透けるような蒼白い顔。

よく見れば、濃い疲労の影が顔中にくっきりと浮き彫りになっている。

そうか・・・。そうだったよね・・・。

ゆっくりと、昨日の記憶が蘇える。

浮かれていた気分が、ちょっとだけ畏まった。

僅かに身を離し、先生の眠りを邪魔しないように注意する。

そして、昨日の出来事を噛み締めるように反芻した。




―・―・―・―・―・―・―




太陽が西に傾き、薄暮に染まった街並みが、急速に夜の帳に包まれようとした頃――

資料の残務整理を終えた私は、鈍重な足取りでアカデミーの門を潜ろうとしていた。

吹き抜ける風が急激に冷え込んで、思わず肩を竦める。

浮かない顔付きのまま、じっと足元の小石を見詰め、とぼとぼ歩いた。



「はぁ・・・」



無意識のうちに溜息が零れる。

あーあ、これで今日何度目の溜息だろうな・・・。

自嘲気味に目を瞑り、また新たな溜息を盛大に漏らした。



明日からの休暇、一体どうしたらいいんだろう・・・。



カカシ先生と一緒に取るはずだったのに、三日ほど前、まるでお約束のように、先生にだけ急ぎの任務が入ってしまった。

「すぐ終わらせて帰ってくるよ」と、呑気そうに笑って出ていったけれど、そんな甘い任務じゃない事くらい私にだって分かる。

この時期、簡単に終わるようなものならば、カカシ先生にではなく、誰か他の人に回された筈。

休暇を目前にしたカカシ先生にわざわざ回されたものならば、それは先生にしか為し得ないような超上級任務。

つまりそれは、いつ終わるかも、無事終わるかも、易々とは判断しきれない危険極まりない任務という事になんだろう・・・。

話を聞かされた時、目の前が真っ暗になってしまった。

胃の腑がずんと重たくなって、身体中がブルブル震えてしまった。

どうしてこんな時に・・・。

今回の休暇は、ただの休暇じゃないのに・・・。

それから今日まで一睡もできず、食事も全く喉を通らず、ひたすらカカシ先生の帰りを待ち続けている。



「カカシ先生・・・」



今頃どこにいるんだろう・・・。

ちゃんと帰ってきてくれるのかな。大きな怪我をしてなきゃいいけど。



ふと気を緩めると、つい悪い結果を思い起こしそうになり、その度にブンブンと頭を振っては、挫けそうになる心を何とか奮い立たせた。

大丈夫。カカシ先生は絶対帰ってくる。

だって約束してくれたもん、必ず帰ってくるからって・・・。

サクラは心配しないで待ってればいいって・・・。

じわじわとぼやけ出す視界を、乱暴に袖口で拭い去った。

歩調を速め、足早に家へ戻ろうとした。

その時――



「ふー、なんとか間に合った」

「え・・・」



懐かしい気配が、私の行く手を遮った。

ニコニコと誰かが立っている。

え・・・本当に・・・?

咄嗟に、自分の目に映るものが信じきれず、棒立ちのままその人影と向き合った。



「あれ。随分とやつれちゃって・・・」



困ったように眉根を下げて、そっと頬に触れてくる大きな掌。

本当に、本当に、カカシ先生なの・・・?

瞬きする事も忘れ、茫然とカカシ先生の顔を見詰めていた。



だって、だって・・・。

本当だったら、まだまだ長引きそうだったカカシ先生の極秘任務。

「今日明日中に里に戻るなんて、絶対無理だ」と、周りのみんなは口を揃えて言っていた。

正直、私も諦め掛けていた。

「間に合わなくても仕方ないよ」という友人の慰めに、必死に虚勢を張って、平気な振りをしていたけれど・・・。

本当は凄く淋しかった。心配で心配でたまらなかった。

だって、もうすぐ・・・。もうすぐ、大切な・・・。



むぎゅ・・・

思わず、自分の頬を思いっ切り抓った。

それでも飽き足らなくて、カカシ先生の頬もぎゅうぎゅう抓り上げた。



「んが!?」

「ねえ・・・、痛い・・・?」

「サ、サクラ?」

「ちゃんと痛い・・・?本当に痛い!?」

「ああ、大丈夫。物凄く痛いから」



ぽろぽろ大泣きしながら頬をギリギリ抓って離さない私を、呆れたようににっこり笑って、しっかりと胸に引き寄せてくれたカカシ先生。

私は人目も憚らず、先生にしがみ付いて子供のようにワアワア泣き続けた。



「ただいまサクラ・・・。な、ちゃんと帰ってきただろ?」




―・―・―・―・―・―・―




そうだね・・・。

お帰りなさい、カカシ先生・・・。



両手で頬をそっと挟んで、コツンとおでこをくっ付けた。

熱い塊のようなものが、じわじわと喉の奥に込み上げてくる。

鼻の奥がツンとなって、ほんの少しカカシ先生が滲んで見えた。

ごめんね・・・。本当にどうもありがとう・・・。

こんなになるまで無茶を重ねてくれたカカシ先生に、私はちゃんと応えていけるのかな・・・。

愛おしさと共に噛み締める、一抹の不安。

・・・そっと視線を外し、部屋の中をぐるりと見回した。



見慣れた部屋。見慣れた空間。

吸い慣れた空気。そして、当たり前のように抱き合っている私達。

通い慣れたこの部屋で、先生と一緒に朝を迎えるのは、もう何度目になるんだろうね・・・。



初めてここに泊まったあの日――

「どうしても帰りたくない」と駄々を捏ねる私に、ほとほと手を焼いたカカシ先生は、とうとう業を煮やして、

「大人をからかうのもいい加減にしろっ!」と、私を突き飛ばし、強引に床に組み伏せた。



「・・・こんな事されたくて、お前は帰らないって言い張ってんのか!?」



氷のような冷冽な視線。刃のような残忍な声色。

私の知らないカカシ先生が、じっと私を見下ろしていた。

殺気と勘違いしそうな凄まじいオーラが、容赦なく私を恫喝し続ける。

サァァ・・・と瞬時に身体中の血の気が引き、歯の根がガチガチと噛み合わなくなってしまった。

怖い・・・としか思い付かなかった。

瞬き一つさえも出来なくなってしまった。

圧倒的な威圧感を前にブルブルと怯えながら、それでも必死に涙をこらえて「帰らない・・・」と、かぶりを振り続けた私。



「・・・はぁ・・・」



やがて根負けしたカカシ先生は、ふっと気を緩めると、長い長い溜息を一つだけ漏らした。



「バカだな・・・お前は」

「・・・・・・」

「どうして、オレなのよ」

「そんなの・・・カカシ先生が、好きだから」

「・・・・・・」

「カカシ先生以外になんて、考えられないから」

「・・・・・・」

「カカシ先生じゃなきゃ、絶対に・・・絶対に嫌だから」

「・・・ったく」



大切なものなんて・・・、もう二度と作るまいと思っていたのに――



どこか物哀しい笑顔で、そっと唇を重ねてくれて。

そして、繊細なガラス細工に触れるかのように、優しく私を愛してくれたんだった。

恐る恐る・・・丁寧に・・・心から慈しんで・・・。

私は、一晩中ずっと泣き通しで。

後になってカカシ先生は、「あんまりサクラが泣き止まないから、オレの方が泣きそうだった」と、苦笑いついでに教えてくれた。



怖くて泣いてた訳じゃないんだよ。

カカシ先生が、あまりにも優しかったから。



先生の想いが、どんどん私の中に流れ込んできて・・・。

私の想いが、ぐんぐん際限なく昂ぶってしまって・・・。

いろんなものが渾然と溶け合って、複雑に混ざり合って、猛烈に膨らんでいって。

そして最後に涙となって、昇華されていっただけ。



ねえ、カカシ先生・・・。

あれから私は、たくさんの言葉や気持ちを、カカシ先生に教えてもらったよね。

この部屋で。この腕の中で。

私はここで、いろんな世界を垣間見た。カカシ先生に導かれながら。

明日からも、きっとそうなんだろうね。

私はずっと、カカシ先生の事が大好きで大好きで。

毎朝こうやって先生の寝顔を眺めて、そして先生と一緒に一日の終わりを迎える。

ずっとそれを繰り返して、たくさんの季節をカカシ先生と過ごすんだ。

ずっとずっと一緒に。そしてそして――



「なあ」

「うわっ!」

「物思いに耽るのも結構なんだけどさ。一体いつになったら、おはようのキスしてくれるのよ?」

「な、な・・・」

「もう、さっきからずっと待ってんだけど」

「・・・せ、先生、起きてたの?」

「そりゃ、こうもジロジロ見られてたら・・・」



「あーあ。待ち切れなくて目あけちゃった・・・」眠そうなまなこが、ゆっくりと開かれる。



「で、朝っぱらからオレの顔見て、なにニヤニヤしてたの?」

「ニ、ニヤニヤなんて・・・、してないわよ」

「してたでしょうが、ずっと。・・・ま、サクラがつくづく見惚れるくらいのイイ男だって事は、重々承知しているが」



わざとらしい半眼で、まじまじと顔を覗き込まれた。

しかも口元には、妙にしれっとした笑顔まで浮かべて・・・。

正に、カカシ先生お得意の『心の底までぜーんぶお見通しだぞー』モード。

・・・急にばつが悪くなり、慌てて顔を背ける。



「あーれま。別に照れなくてもいいのに」

「て、照れてなんか・・・ない!」



「何を今更・・・」と、笑いを噛み締めるカカシ先生が、やけに気に障る。

なんでだろう。今の今まで、あんなにドキドキしてたのに・・・。

顔を真っ赤にしながら、ぷいっ・・・とあさっての方向を睨み付けてやった。

このまま先生と顔を合わせていたら、絶対に私の頭の中をトレースされちゃう。

それはちょっと・・・、いや、かなり恥ずかしい。



「あれ、怒っちゃった?」

「・・・・・・」

「ねー、こっち向いてよ。サクラ」

「ふ、ふん」



クツクツと楽しそうに、先生の腕が私の身体に巻き付いてくる。

今度はカカシ先生が私の顔を覗き込むように、身体を摺り寄せてきた。

ぐいぐい・・・ぐいぐい・・・

思いっきり密着する身体と身体。

でも、意地になって、私も顔を背け続ける。

ぐいぐい・・・ぐいぐい・・・

ぐいぐい・・・ぐいぐい・・・

面白がった先生が、首から肩、耳から顎・・・と、身体中のあちこちに、くすぐるようにキスを仕掛けてきた。



「なあ、こっち向けって」

「む・・・むむむ・・・」



ダメだ・・・。く、くすぐったい・・・。

ムッとしていた筈なのに、いつの間にかプルプルと肩を震わせて、笑いをこらえるのが精一杯になっていた。



「ほーら、オレの勝ち」

「そ・・・そんなぁ・・・」



完璧にイニシアチブを奪われ、気が付くと、すっぽりとカカシ先生の腕の中に収まっていた。

背中から回された大きな手。凄く温かい・・・。

背中越しに感じる先生の鼓動。凄く気持ちがいい・・・。

ドキドキが再燃する。

じっと腕にしがみ付きながら、先生には内緒で、その心地良さに酔いしれた。



「ずっと今までの事・・・」

「えっ?」

「もしかして、出会ってから今日までのいろんな事とか・・・、思い出してたんじゃない?」

「なんでそう思うの?」

「いやなー。オレも見てたから」

「・・・みてた?」



ゆっくりと振り向いた私の顔は、きっと不可解な表情をしていたと思う。

じっと先生の目の中を覗き込む。

先生は静かに笑顔を浮かべて、私の問いに答えてくれた。



「夢の中で、今日までのいろんな事・・・。ああ、あの時サクラが笑ってたなあとか、あの時サクラを泣かせちまったなあとか・・・」

「・・・・・・」

「そんな夢をさ・・・。さっき、ずっと見てたんだ」



優しく髪を撫でながら、誘い込むような蠱惑的な瞳がじっと私を見据えている。

吸い込まれそうな深い蒼。

胸を衝くような凛とした緋。

何かの術に掛かったように、そこから目が離せなくなってしまった。

うっとりと視線を合わせるだけで、身体中の力がすうっと抜け落ちていく。



「お前に出会えて・・・、本当に良かった」

「カカシ・・・先生・・・」



胸一杯に、何かが溢れ出してくる。

どうしてだろう・・・。先生の顔が眩しくて見ていられない。

満足げに目を細めながら、ゆっくりと近付いてくる影。

私もそっと目を閉じて、懸命にカカシ先生に応える。



「ん・・・」



深く差し込まれた舌が、細やかに、念入りに、私を寵愛する。

もうそれだけで頭の芯が甘く痺れて、思わず大きな背中にぎゅっと爪を立てた。



「ア イ シ テ ル ・・・」



大きな手が、流れるように私の身体を滑り進んでいく。

陶然と鼓膜を震わせる甘美な囁き声。

無我夢中で、私も同じ言葉を何度も口にした。



・・・やがて、静かに唇を離したカカシ先生が、にっと無邪気な笑顔を浮かべた。



「これからもよろしくな・・・。オレの奥さん」



んもう・・・。先生ったら、気が早いんだから・・・。

だって、それは明日だもの。

今日はまだ春野サクラのまま。

そう、今日が最後の春野サクラだから――



だから、カカシ先生の恋人のままで、今日一日は甘えさせて。

あなたに恋するただの女の子として、死にそうなくらい私を愛して。

きっと新しい私も、カカシ先生に恋をしている。

ずっとずっと先生に恋をしているから。

だから、だから、今日の私を・・・、最後の私をいっぱい愛して。

切なくなるほど、愛し抜いて・・・。



汗ばんだ手を重ね合わせ、固く握り合った。

ちっぽけな不安とか、些細な感傷とか。

遣る瀬無い想いが、さざめいて、波立って・・・、やがて静かに凪いでいった。



明日の私は・・・。

きっと、幸せに満ち溢れている。



確信にも似た予感が、不意に胸の中に湧き起こる。

力強い腕に護られ、私はそっと目を閉じた。






ずっとずっと 私を愛して


生まれ変わっても ずっと私を


私の目には あなたしか映らない


あなたの色しか もう纏わないから


だから 私だけをずっと・・・


ずっとずっと このままで――