――― 宝物 ―――
夜明け前から丸一日がかりの任務を終え、重い足を引き摺りながら、やっとの思いで自宅に向かっていた。
時間はもう深夜。
あと数分で日付が変わろうとしている。
疲労ですっかり強張った背中の筋肉を解き解そうと、腕をぐるぐる回してみた。
ビールでも飲んで、さっさと寝よう・・・。
そのままポケットをまさぐり、鍵を引っ張り出す。
暗がりの中、鍵穴に差し込もうとすると、
「あれ・・・?」
玄関脇の植込みの陰に、何やら人影が蹲っていた。
「・・・サクラ?」
間違いない。見慣れたピンクの髪。
真夜中のこんな時間に、いったいどうしたんだ?
「あー・・・、カカシセンセー、お帰りぃー・・・」
ヘラヘラと片手を振りながら、サクラが笑っていた。
かなり出来上がっている。
真っ赤な顔をして、視線も定まっていない。
そんな格好で、いつからここに居たんだよ?
「どうしたの。 そんなに酔っ払って・・・。 俺になんか用事?」
「へへへ〜。 用事も用事! センセーに逢いにきたのー」
「・・・だからこんな夜中に、どんな用事なんだよ」
「えーとね・・・。 急にセンセーに逢いたくなっちゃって〜、それで来ちゃったの・・・」
トロンとした目で虚ろに見上げてくる。
会話が成り立たっていない。
思わず、ハァァー・・・と大きく溜息をついてしまった。
「何言ってんだか・・・。 ホラッ! 帰るぞ! 送ってくから・・・」
両手を引っ張り、何とか立ち上がらせようとする。
しかし、まったく重心が定まらず、クタクタ〜とすぐ元の格好に戻ってしまう。
何度やっても同じことに業を煮やし、しまいには諦めて、よいしょ! とサクラを背中に負ぶった。
今来たばかりの道を、引き返す破目になってしまった。
せっかく我が家まで辿り着いたというのに、腹立たしい。
小さく舌打ちをすると、サクラは不審気に、「先生、どこ行くの?」と、訊ねてきた。
「どこって、サクラの家でしょうが」
ぶっきら棒に答えてやった。
エー!せっかく先生の家に来たのにー!と、盛大にブーイングを浴びせてくるが、正直、勘弁して欲しい。
「あのねー、俺も任務明けで疲れてんのよ。 勘弁してくれよ・・・。
だいだいさ、こんな足腰立たないくらい酔っ払うなんて、どうしたの?」
「どうもしませんよ〜・・・。 あー・・・、先生の背中、気持ちいいねー」
「・・・そりゃ、どうも」
ポツン、ポツンと忘れ去られたようにひっそりと点在する街灯の下を無言で歩く。
サクラはなにやらご機嫌で、鼻歌らしきものを歌っていたが、
やがて ―――
「カカシ先生・・・。 白雪姫って、どうして毒林檎を食べたのか・・・、知ってる?」
奇妙な質問を繰り出した。
「どうしてって・・・、悪い魔女だか、意地悪な継母に騙されて食べたんだろ?」
「じゃあ、赤頭巾はどうして安全な道じゃなくって、危険な森に入っていったか、知ってる?」
「・・・近道だったから?」
クツクツと背後から笑い声が響いた。
「全然ちがーう! ・・・あのね、白雪姫は毒林檎ってちゃんと知ってて食べたのよ。
赤頭巾も、オオカミが出るってちゃんと解ってて森に入ったの。
シンデレラだって、わざと片方の靴を置いてったんだから」
――― だって・・・。
白雪姫は、どうしても王子様にキスして欲しかったから。
赤頭巾は、オオカミに食べられたくって仕方なかったから。
シンデレラは、絶対に自分だけを探し出して欲しかったから。
いつだって、いつだって・・・、女の子は罠を仕掛けてるのに・・・。
「・・・先生は、優しいよね。 ホント、焦れったいくらい優しい・・・」
据わりの悪い、奇妙な問答。
背中で微かに、
「・・・先生の、鈍感。 意気地なし」
罵り声が聞こえた。
意気地なしねぇ・・・。随分な言われ方だ。
まったく人の気も知らないでと、苦笑するしかない。
大事過ぎて、大切過ぎて・・・・・・、
そのまま手を触れずに守り抜きたいものだってあるのだと、
所詮サクラには理解できない事なのかもしれない。
――― 好き好んで、赤く染まることなんてないんだよ。・・・こんなどす黒い、死人の血の色に。
耳元で、規則的な呼吸音が繰り返されている。
すっかり寝入ってしまったサクラを軽く負ぶい直し、やけに色褪せて見える蛍光灯の下を、ゆっくりと歩き続けた。
「ホラ、着いたぞ」
背中を軽く揺すってみたが、熟睡中のサクラは一向に目覚める気配を見せない。
「・・・全く、もう」
サクラを落とさないように気をつけながら、彼女のバッグの中をまさぐり鍵を見つけた。
カチャ・・・
仄かにサクラの香りが漂う部屋。
お気に入りらしい小物達が並べられた、いかにもサクラらしい空間。
静かに靴を脱がせると、まずは奥の寝室を目指した。
「よいしょっと・・・」
起こさないように静かにベッドに寝かせる。
「・・・あんまり飲みすぎるなよ」
ほつれた髪を軽く整え、暫しその寝顔に見入った。
「オヤスミ・・・」
小さく呟き、そのまま立ち去ろうとしたら ―――
「待って・・・」
サクラが、俺の服の裾をギュッと握り締めていた。
「―― 行かないでよ、カカシ先生・・・。 お願いだから」
縋るように、力なく呟く。目の端には、涙を滲ませて。
震える声に、一瞬胸が詰まる思いがした。
が ―― ・・・ 、
小さく息を吐き出すと、わざとからかうような調子で答えた。
「なーに、どうしたの? 怖くて一人で寝られない歳じゃないでしょーが」
悔しそうに唇をかみ締めるサクラ。
「どうして・・・どうして、解ってくれないの・・・? いつもいつも、そうやってはぐらかして・・・私ばっかり、空回りして・・・」
「・・・・・・」
「私ばっかり・・・先生を追いかけてて・・・」
俺を掴む手が、力なく滑り落ちる。静かな嗚咽が部屋に響いた。
それでも、呆れた風に肩を軽くすくめながら、おどけた口調で話す事を止められなかった。
「サクラ・・・。 酔った勢いでも、女の子がそういう事言っちゃダメでしょ。 俺だって、一応男なんだからさ」
「酔ってなくちゃ、こんな事言えないわよ! 素面でこんな事言って、もし拒絶されたら・・・。
怖くて怖くて、でもどうしても我慢できなくて、必死にお酒飲んで勇気出して・・・」
最後のほうは涙で掻き消されて、よく聴き取れなかったけれども。
サクラの必死の想いだけは、ちゃんと伝わってきた。
―― いや、前々から知らされていたんだった。
今までだって、サクラは事あるごとに、俺に向かって気持ちをぶつけてきたんだった。
それは当然嬉しかったけれども・・・、でも、それ以上に恐れのほうが大きかった。
あまりに彼女は純粋すぎたから。
彼女の笑顔が眩しすぎて、逆に自分の闇の深さを思い知らされた。
サクラの傍にいればいるほど、自らの闇に取り憑かれてしまう。
そんな俺にサクラは相応しいはずなんて、ないから。
今だって・・・、そう思っているから。
だから、手に入れようなんて思ってはいけない。
じっと黙って、項垂れるサクラを見つめるしか ―― ・・・、ないんだ。
息苦しさが募る。立ち去りたいのに、身体中が石のように固まって、思うように動けない。
やがて、サクラが顔を上げた。
目の端を朱く染めて。キッと強い憤りを湛えて。
俺はその表情に、当惑するだけだった。
奇妙な睨み合い。
どれ位続いていただろう。
強い視線に根負けして、ふと視線を外したら。
「 ―― !!」
サクラが噛み付くようにキスしてきた。
思わず肩を掴み、身体を引き離そうとする。
でも、俺に喰らいついても、なお、必死に挑みかかるような瞳を向けられ、
カタン ―― と・・・
俺の中の何かが、崩れていった・・・。
「後悔・・・、するだけだぞ・・・?」
細い身体をきつく抱きしめながら、それでもまだ、ぶざまに足掻き続けようとする俺。
俺なんかに関わって、良い事ある訳ないのに。
せっかく大切に、しまっておいたのに・・・。
逡巡を繰り返し、どうしても踏み出せないでいる俺に、サクラは優しく微笑みかけた。
「後悔なんて、絶対しない」
瞳を和らげ、緩くかぶりを振る。
その一言に、救われた。
その一言で、覚悟を決めた。
繊細な宝物に触れるかのように、そっと頬に、瞼に、鼻に、髪に、顎に・・・、指を滑らせる。
確かな温かみが、凍えた指先に沁み渡った。
泣きたくなるほど温かくて、無我夢中で、サクラの唇を何度もむさぼった。
一つ一つ、ゆっくりとボタンを外しながら、薄く張り詰めた肌に頬を寄せ、慈しむように唇を這わす。
傷一つない、白く柔らかな肌。
その甘くすべらかな感触に酔いしれながら、サクラの熱を徐々に引き出していった。
決して慌てる事なく。ゆっくり、ゆっくりと。
不安と羞恥心に微かに震えながらも、俺に微笑み続けるサクラ。
痛々しいほどの健気さに、ますます愛しさが募っていく。
静かに、密やかに愛撫を重ね、ゆっくりと身体を馴染ませていった。
そっと、そっと繋がって ――
やがて訪れた身を裂くような痛みにも、俺にしがみつきながら必死に耐え、
それでもなお微笑むサクラに俺の方が溺れていった。
「愛してる・・・。 愛してるの・・・」
俺の腕の中で、呪文のように繰り返し呟くサクラ。
一欠片の呪文も決して取り零さぬように、唇で丹念にすくい取った。
「愛してる・・・。 愛してるよ。 ずっと、ずっと前から、お前だけを愛していた」
紡ぎ合わされる呪文。
糸が解れて夢から覚めてしまわぬように、何度も何度も囁き合った。
全く愚かしいサクラ。
自分からわざわざ飛び込んできて。知らなくてもいい闇を垣間見て。
でも、それよりも愚かしいのは俺の方。
せっかく大切に守ってきた掌中の珠を、むざむざと握り潰して。粉々に砕け散らせて。
それでも、知ってしまった肌の温もりは、心の闇に小さく灯を燈した。
幸せそうな寝顔にそっと口付けると、
くすぐったそうに小さく身じろぎ、微笑んでいる。
心に芽生えた新たな道標。
それを辿ればどこに行き着くのか、今はまだ判らないけれど。
少なくとも今よりは孤独ではないのだろうな。
どう、道を辿っても、サクラが明かりを燈してくれる。それは確実だから。
「・・・カカシ・・・先生・・・」
「・・・ん?」
「おやす、み・・・な、さい・・・」
「ああ・・・、おやすみ・・・」
安心しきった笑顔で眠りつく、この形を変えた宝物を、大切に抱きしめながら ――
二人並んで歩き続ける・・・、そんな果てしない夢を見た。