気の迷い
とにかく、ひどく落ち着かなかった。
気が付いたら、ここに向かっていた。
つい先程まで、みんなで訪れていた場所。
白く殺風景な壁と扉を睨みつけるように、ずんずんと奥に進んだ。
(まったく、あのヤロウ・・・)
その場の空気が読めないとか、他人の気持ちを察しないとかのレベルじゃない。
とにかく奴が口を利くたびにイライラさせられる。
どうして私ばっかり、こうもボロクソに言われなきゃいけないのか。
「何なのよ・・・。どうして私がブスで、あの娘は美人さんな訳ぇー!?」
で、一人ぶち切れて、みんなそこそこ和やかに焼肉しているところに自分だけムカムカとしながら、それでも他人の奢りの肉はしっかりと頂いて、そして気が付いたら、一人でまたここに戻ってきていた。
どうしてだろう。自分でもよく分からない。
怒りに任せて歩いていたら、いつの間にかここに来ていた。
なんとなく、カカシ先生なら自分の怒りを静めてくれそうな気がしたのかもしれない。
トントン、カラカラ・・・
おざなりにノックをして扉を開ける。
「あれ・・・、どうしたの、サクラ? みんなと焼肉屋に行ってたんじゃないの?」
ビックリしたようにカカシ先生が問いかけてきた。
むすっとしたままズカズカと枕元に近寄り、見舞い客用の丸椅子にドスンと腰掛ける。
安っぽいスチールのパイプが、キィ・・・と堪らず悲鳴を上げた。
「どしたのよ・・・。ずいぶんと機嫌悪そうだねー」
「・・・・・・」
「何かあった?」
「・・・別にぃ・・・」
いかがわしい愛読書にニヤつきながら、のほほんと尋ねてくる担当上忍。
私は、別世界の不思議な生き物でも見るような気持ちで、カカシ先生を眺めていた。
相変わらずだな、カカシ先生・・・。
どこにいようと、いっつもマイペースで。
私が何かにイライラしてても、全然お構いなしにヘラヘラ笑ってて。
「あーあ、やっぱ無駄足だったかなー・・・?」
「・・・なに一人でブツブツ言ってんのよ?」
こんなカカシ先生に、何を求めていたというんだろう。
歯の浮くようなお世辞でも、並べ立ててくれると思ったんだろうか・・・。
でもまあ、もしかしたら期待の言葉が聞けるかもしれないし、物は試しに訊いてみようか。
「あのさー、カカシ先生・・・」
「んー?」
「ちょっと訊きたい事があるんだけど・・・」
「おー、何だー?」
「誤魔化さないで、本当の事教えてくれる?」
「答えられるコトならね」
「是非とも答えて。先生、私の事・・・、どう思う?」
質問した途端、バサッと読みかけの本が落とされた。
「え・・・?なによ、カカシ先生・・・。私、変な事言った?」
「変なって・・・サクラ、お前・・・」
閉じていた左目までパチクリとさせ、どういう訳か顔を真っ赤にして狼狽しているカカシ先生。
私はただ、自分が可愛いのかそれとも不細工なのか、他人の意見を聞いてみたかっただけだ。
自分があの娘より余程劣っているとは到底思えなくて、その気持ちをカカシ先生に肯定してもらいたかっただけなのに、どうして先生が、こうもうろたえなくちゃいけないんだろう。
「やだ、どうしちゃったの? 先生、顔真っ赤・・・」
「お前・・・、オレに何言わせたいの?」
「何って・・・」
そんな事、自分の口から言える訳ないじゃない。
私から強要して『可愛い』って言ってもらうんじゃ駄目なの。
あくまでも自発的に褒めてもらわなくちゃ意味がないの。
口の上手いカカシ先生の事だから、もしかしたら簡単に「んー、サクラはとっても可愛いぞー!」って言ってくれるかと思ったのに・・・。
(もしかして・・・先生まで私の事、不細工だって・・・)
そりゃあ、身体の発育はまだまだ途中段階だけど、結構いいセンいってると思っていただけに酷く落ち込んでしまった。
「そんな、高望みし過ぎなの・・・?ねえ、私って魅力ない?全然可愛くない?」
自分で言ってて、泣きそうになってくる。
どうしてあの娘はOKで、私はペケなのよ・・・。
「ねぇねぇ、答えてよぉ、カカシ先生・・・!」
「そ、そんなウルウルしながら顔くっ付けるなよっ!」
ますます真っ赤になりながら、先生がオロオロと後ずさり始める。
何としてでも先生に否定してもらいたい。
ベッドに伸し掛かり、思いっきり先生に詰め寄っていく私。
ジリッジリッとベッドの端に追い遣られ、逃げ場を失う先生。
「あっ! 危ない!」
「うわぁー!」
派手な叫び声を上げて、とうとうベッドの向こう側に転がり落ちてしまった。
「だ、大丈夫!? カカシ先生・・・」
「いててて・・・」
頭を抱え、先生が小さくうずくまっている。
ベッドの上から覗き込む私に、「ハハハ・・・」と照れ臭そうに笑いを返すと、ぼそっと小さく呟いた。
「あーあ、参ったな・・・」
「ホ、ホントに大丈夫? 瘤とかできてない?」
上から手を伸ばし、先生の頭をそうっと撫でてみた。
見た目とは違う、フワフワと柔らかい気持ちの良い髪。
(へえ・・・、先生の髪ってこんななのかー・・・)
意外な発見に驚いて、くしゅくしゅと髪の毛に触ったまま、まざまざと先生の顔を見入ってしまった。
じっとされるがままだったカカシ先生は、酷く困ったような目をして私を見上げている。
「あ、あのさ、まさかとは思うけど・・・。サクラ、オレの事・・・ひょっとして、口説いてる?」
「・・・はぇ?」
思いもよらぬ一言に、今度は私が固まってしまった。
(私が・・・?私が先生を・・・?口説いている・・・?)
かぁぁぁぁぁっと、顔が物凄い勢いで真っ赤になってしまった。
今までの私の言動、確かにそういう風に捉えられてもおかしくはない。
「や・・・やだ、私・・・。ち、違うっ、そんな・・・。え、えーと・・・あの・・・」
慌ててベッドから飛び降りて、椅子の上に畏まる。
頭に血が昇り過ぎちゃって、何といって誤魔化せばいいのかちっとも思いつかない。
(あわわわわわわわ・・・)
どうしようどうしよう・・・。
絶対絶対、変な奴だって思われてるに違いない。
私ったら、なんて事訊いちゃったんだろう・・・。
一体どうやってこの場を取り繕ったらいいのよぉー・・・!
「ハハハ・・・、そ、そうだよねー・・・」と、苦笑いを浮かべながら、カカシ先生がベッドの上に戻ってきた。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
妙に気まずい空気が流れている。
二人して不自然なほど顔を赤くさせて、ガチガチに固まって・・・。
でも、私はともかく、どうしてカカシ先生まで真っ赤にならなきゃいけないのか・・・。
(せ、先生がそんなだから、私までますます緊張しちゃうんじゃない・・・!)
何か言わなきゃ、何か言わなきゃ、と思うんだけど、頭の中はすっかり空回りしちゃって何も思いつかない。
「・・・え、えーと・・・さ・・・」
「は、はい・・・!」
「あ・・・そ、そんな畏まらなくても・・・。も、貰い物だけどさ・・・、何か飲む?」
ぎこちなく笑顔を向けながら、カカシ先生が枕元のサイドボードに手を伸ばした。
「あっ、私がやるからっ・・・!」
(ラッキー! これで話を逸らせる口実が・・・)
すかさず私も手を伸ばす。
でも、勢い良く手を伸ばし過ぎて、ジュースのビンがグラグラと大きく揺れ出してしまった。
「あっ!」「危ないっ!」
慌てた先生の手がグンと近付く。
ガシッ――
ピタッ・・・
あろう事か今度はピタリと手を重ね合って、一緒にビンを掴んでいた。
「・・・うがっ」「ひぃぃ・・・」
腕を突っ張らせたまま、ますます真っ赤になってうろたえている私達。
いきなり手を振り解いたりしたら、逆に、変に勘ぐられそうな気がして、どうする事もできずにいる。
呆けたようにそのまま凝り固まって、どんどん事態は悪化していくのみ・・・。
(あぁー、もう何なのよぉ・・・!)
別に先生の手に触れるのなんて、初めてじゃない。
先生だって今まで平気で私に触れてたはずなのに、どうして今日に限ってこんな事になっちゃったのか・・・。
(くぅぅっ・・・)
(うわぁぁっ・・・)
二人して気まずそうに俯く。
傍から見たら、なんて馬鹿みたいなんだろう、私達。
もう泣きたくなってきた。
(何か・・・何か、良いきっかけないかな・・・?)
とにかく、この状況から抜け出さない事には始まらない。
藁にも縋る思いでウロウロと目を泳がせていると、ふとベッドの下に無造作に押し込められている紙袋が目に付いた。
(何だろう・・・)
僅かに頭を下げて覗き込んでみる。
開いた袋の先から、クシャッと丸められたタオルらしきものが見えた。
「あ、あー・・・カカシ先生っ!え、えーと・・・もしかしてこれ、洗濯物・・・!?」
「えっ!?・・・あ、あぁ・・・、そう・・・だけど・・・」
「やっぱり!じゃ、じゃあ、私・・・これ洗ってきてあげるね・・・!」
「はぁ!?・・・い、いや、良いから・・・!気にしなくて良いから、ホント・・・」
「や、やだなー・・・。遠慮しなくていいのに・・・、アハハ・・・。私だって、洗濯くらい・・・」
チャンスとばかりに手を離し、ガサゴソと紙袋を引っ張り出す。
途端に、カカシ先生がパニックを起こしたように慌てふためき出した。
「やや、や、止めろって・・・!」
私が抱きかかえた紙袋を、強引に奪い返そうとする。
何が何だか分からない私は、反射的にギュッと袋を握り締めてしまった。
ベリッ!と派手に袋が破れ、いろいろ飛び出す袋の中身・・・。
バサバサバサ・・・
「あ゛・・・」
「っちゃー・・・」
辺りに散らばるタオルやシャツや男物の下着。
いかにも使用済み感バッチリの物達ばかりで、またしても墓穴を掘ってしまったようで・・・。
「あ・・・ああ・・・あ・・・」
うろたえながら洗濯物に手を伸ばそうとする私を、先生が必死で止めた。
「い、いいからそのままで・・・!」
「――!」
私が掴んだタオルを取り上げようとして、カカシ先生が勢い良くタオルを手元に引っ張る。
手加減なしの先生の力。
ドタン!と物凄い勢いで、カカシ先生の胸に激突してしまった。
「ぁ・・・」
「ぐぁぁ・・・」
な、なんで目の前にカカシ先生の胸があるんだろう・・・。
どうしてどんどん、とんでもない方向に行っちゃうんだろう・・・。
薄手のシャツに顔が埋もれて、嫌でも先生の匂いを嗅ぎ取ってしまう。
(男の人の、汗の匂い・・・)
ぶおーっと、物凄い勢いで顔から火が噴き出した。
心臓がバクンバクン暴れまくって、今にも喉を突き破りそうになっている。
もうパニックの極限状態で、自分が何をしているのかサッパリ分からない。
カカシ先生がせっかく、「ご、ごめん・・・」と手を放そうとしたのに、私ときたら、あろう事か反対にカカシ先生にギューっとしがみ付いてしまった。
「え・・・サ、サクラ・・・?」
カカシ先生が激しく動揺している。
そりゃそうだろう。抱きついている私だって、負けず劣らず動揺しているのだ。
動揺し過ぎて、自分で何をしているんだか、サッパリ分からないんだから・・・。
恥ずかしいのと照れ臭いのとで、ギューギューと力任せにしがみ付いて、必死に誤魔化した。
「サ、サクラ・・・苦しい・・・」
先生が呻いているけど構ってられない。
とにかく、今、私の心臓は暴発寸前で、頭の中はガンガン脈打っていて、とてもまともな判断能力なんてありっこない。
(どうしよう、どうしよう・・・)
自分でこの状況を作っておきながら、今更ながらに困ってしまった。
どうしたら、この場を上手く切り抜けられるのか・・・。
「ね・・・サクラ・・・」
喉に引っ掛かったような掠れ声が聞こえる。
恐る恐る、カカシ先生の指が私の顔に触れてくる。
(ひゃぁぁぁーーー!)
どうしていいのか分からず、ぐいぐい顔を押し付けた。
ギュッと目を瞑ったすぐ傍で、小さく乱れた先生の息遣いが聞こえてくる。
くわぁぁー・・・、今にも呼吸困難に陥りそう・・・。
「・・・・・・いい・・・の・・・?」
何が・・・何が『いいの?』なの・・・?
僅かに顔を上げて、恐る恐るカカシ先生の顔を覗き見た。
先生は、酷く戸惑った、それでいて、とても切なそうな目で私を見下ろしている。
ドキン・・・
また心臓が跳ね上がった。
何の事かサッパリ分かりもしないのに、つい、コクンと頷いてしまった。
一瞬、先生の目が眩しそうに眇められ、泣き笑いのような笑顔が浮かぶ。
(な、何・・・?)
静かにスッとマスクが引き下ろされる。
ほんの少し小首を傾げて、カカシ先生の顔がゆっくりと近付いてきた。
そ、そういう事か・・・と、やっと合点がいった私。
バクバクと破裂しそうな心臓。
今更だけど、どうしてこんな事になっちゃったんだろう。
私はただ、誰かに『可愛い』って言って貰いたかっただけで・・・。
そう、それだけで・・・。
なのに、どういう訳か、カカシ先生と大変な状況に陥ってる訳で・・・。
でも、心の片隅ではちゃんと気付いていた。
どんなに頭がパニックになっていても、決して私は嫌がってないって事・・・。
どんどん状況が泥沼のようになっていっても、この部屋から逃げ出したいとは思っていない事・・・。
「せ、せんせ・・・」
「シッ・・・、黙って・・・」
先生の顔がすぐそこにある。
ほんの数センチ先・・・。
恥ずかしくて目を開けてられない。
先生の髪が頬をくすぐる・・・。
先生の息が鼻や唇に吹きかかる・・・。
背中がゾクゾクして、今にも大声で叫び出したい衝動に駆られてしまう。
(あ、あぁー・・・!うわぁー・・・!)
どんなに固く目を瞑っていても、近付く気配は隠しきれない。
(う、うわぁぁ・・・、く、来る・・・!)
あと・・・あとほんの少し、ほんの数ミリ――
トントン・・・
カラカラカラ・・・
「はたけさーん、検温の時間です・・・・・・よ・・・」
「!!」
「!!!!!」
間違いなく、この部屋だけ数分間時間が止まったと思う。
体温計を手にした白衣のナースと、ベッドによじ登り先生の胸にしがみ付く私と、そんな私に覆いかぶさるように顔を近付けているカカシ先生。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
やがて、我に返った白衣のナースが、「お、お邪魔しましたぁーー!!」と、慌てて部屋から飛び出していった。
ドタンバタンと何かが派手に引っくり返る音が、廊下のあちこちで聞こえてくる。
思わぬ闖入者の出現で、ようやく冷静に戻れた私達・・・。
「あ・・・あの・・・」
「・・・や・・・やや・・・い、いやぁぁぁぁぁーーー!!」
物凄い勢いでカカシ先生を突き飛ばすと、手近にあった図書館の本を引っ掴んだ。
何!?何なのよ、私!?
その場の勢いとは言え、カカシ先生とそんな事・・・!
「いやぁいやぁいやぁぁぁぁーーーー!!!」
「ま、待てよ!サクラ・・・!」
先生が大声で呼んでいる。
でも、恥ずかしくて恥ずかしくて、一刻も早くこの場を立ち去りたい。
ピシャンと扉を閉め、逃げるように廊下を走り抜け、一目散に病院を後にした。
「はぁ、はぁ・・・はぁ・・・」
肩で大きく息を切らし、全速力だったスピードを少しだけ緩める。
な、何であんな事しちゃったんだろう・・・。
考えても考えても分からない・・・。
そりゃ、私はカカシ先生の事は嫌いじゃない。
好きか嫌いかと訊かれたら、まあ好きと答えるだろう。
でも、そういう風に「好き」と意識した事なんて全然なかった。
だって私の好きな人は・・・、好きな人は・・・。
「あ、あれ・・・? 何で?」
先生の顔ばっかりが頭をちらつく。
ガシッと肩を掴まれた感触や、顔に降り掛かった息遣いがまざまざと蘇る。
かぁぁぁぁぁ・・・
思い出したら、また顔が赤くなってしまった。
ブルンブルンと頭を振って、何とか先生の面影を振り払おうと躍起になる。
「き、気の迷いだよ・・・、きっと・・・」
たまたま、あんな雰囲気になっただけ。
たまたま、先生も私も我を忘れてただけ。
たまたま、私が病院に・・・。
「え・・・、どうして、私・・・病院に行ったんだろう・・・?」
そもそもの始まりはそこだった。
どうしてカカシ先生に会いに行ったんだろう。
(どうして?どうして?どうして?)
いくら考えてみても分からない。
重たい足を引き摺るようにダラダラと木の葉の大通りを歩いていると、どうも道行く人達が私を見ている。
何の気なしに自分の手元を見て、愕然とした。
「な、なによ・・・これ・・・?」
図書館で借りた小豆色の薬物の専門書。
それが、いつの間にか毒々しいオレンジ色のいかがわしい本に掏り替わっている。
しかも、ページとページの間に何かヒラヒラと布切れが挟まっていて・・・。
それが、先生の使用済みの下着だという事に思い至るまで、相当時間が掛かってしまった。
「んがががががが・・・」
ど、どうしよう!?春野サクラ、絶体絶命のピンチッ!
こんなもの持って、家に帰れる訳がない。
でもでも・・・、病院に引き返すのは、もっともっとできっこなーーーい!!
「ああああああああ・・・」
なんて日なの、今日は・・・。
それもこれも、全てはアイツが悪いのだ。
やたらと人の気を逆撫でする、いけ好かない仲間。
大通りの真ん中に呆然と立ち尽くし、手にしたものをどう扱っていいのか考えあぐねている私。
次の日、あらぬ噂を立てられるとは、さすがにまだ思い至っていなかった・・・。
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